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三軒茶屋本店店舗案内:三軒茶屋 三恵

住所:東京都世田谷区太子堂 4-23-13
電話番号:03-3413-6119
営業時間:10:00〜19:00
定休日:1/1〜1/3
8月第2・3水曜日、9/1

三軒茶屋の由来

太子堂には、古くから氏神として祀られた八幡神社と、由緒ある円泉寺(太子堂)、教学院(目青不動)がありました。

円泉寺
円泉寺は、太子堂村の起こりとも深くかかわり、村の中心的存在となってきました。
文禄4年(1595年)賢恵という僧が、大和の久米寺から十一面観世音菩薩像と聖徳太子像を背負って関東へ下り、村の民家に宿泊した時のこと、僧の夢に聖徳太子が現れて「円泉ケ丘に霊泉が湧きだしている。この地に安住したい」とのお告げがあったので、お堂を造ったという説話が伝えられています。また、それ以前の鎌倉時代から南北朝時代に、すでに村の集落が作られ、聖徳太子像が安置されていたとの説もあります。
毎年2月3日(閏年2月4日)の聖徳太子節分会には、太子堂が開かれ護摩が焚かれて、にぎやかに豆まきが行われています。また、玉川八十八ヶ所霊場の第51番霊場として、多くの巡礼者が参拝する所となっているのです。
太子堂八幡神社
八幡神社は、円泉寺の別当職として文禄年間(1592〜'96年)に創祀された、との記録があります。実際には、それ以前のはるかな昔から、村を護る鎮守様が祀られていたようです。言い伝えでは、平安時代の終りごろ、源義家が父・頼義とともに朝廷の命を受けて陸奥の安倍氏征討に向かう途中、この地を通って八幡神社に武運を祈ったとか。
ご神体は、古代神道の形とされる紙の幣束です。祭礼は10月の第2土・日曜日で、おみこしがくり出し、縁日の店も並んでにぎわいます。
教学院
この寺は竹園山教学院最勝寺といい、慶長9年(1604年)玄応大和尚の開基によるもので、初めは江戸城内の紅葉山にありました。後に赤坂に移り、寛永8年(1631年)の第五世法印岸能大和尚の時青山に移りましたが、その後2度の火災で古記録なども焼失してしまったと言われています。太子堂村に移転したのは、明治41年で第十七世権僧正寛葆大和尚の時でした。教学院は比叡山延暦寺末寺の格式をもち本堂には恵心僧都作による阿弥陀如来と、聖徳太子作といわれる聖観音像が安置されています。
教学院の不動明王像は目青不動尊といわれていて、目黒不動、目白不動、目赤不動、目黄不動とともに五色(五眼)不動の1つとして知られるものです。この不動はもと麻布の観行寺の本尊でしたが、この寺が廃寺となるに及んで、明治15年に青山南町の教学院に移されたもので、青山のおえんまさまと言われていたということです。
目青不動の縁日は毎月6の日で、この日は不動堂が開かれるので、不動像を拝みにくる人々でにぎわっています。
あの坂本龍馬も遊んだ?三軒茶屋
三軒茶屋には昔、その名前どおり三軒の茶屋がありました。江戸時代の中ごろから丹沢の大山阿夫利神社へお参りに行く人が増え、静かな田園の道(矢倉沢往還)は大山道としてにぎわうようになります。やがて近道(今の玉川通り・国道246)がつくられ、分岐点に三軒の茶屋「しがらき(後の石橋屋)」「角屋」「田中屋」ができ、大山詣や多摩川行楽の人々の休み処として、いつか三軒茶屋と呼ばれるようになりました。
どの店も座敷にお膳をととのえ、接待の娘たちもいる立派な構えの料理茶屋(料亭)でしたが、店の前に床几(縁台)を並べ、よしずを立てて道行く人々に茶菓も出したようです。まわりには髪結床や煙草屋などもあったとか。石橋屋には、幕末の志士・坂本龍馬の写真が残されており、彼や高杉晋作も三軒茶屋で遊んだのではと想像されます。ほかに、将軍徳川家慶、画家渡辺華山、蘭学者高野長英、明治期にはウサギ狩りの前後に休憩された明治天皇、そして大将乃木希典や作家徳富蘇峰なども茶屋を訪れています。
明治の中ごろから大正時代にかけては、軍の施設が次々に世田谷に移転し、商店や住宅の数がどんどん増えて、シャボン屋、立飲みのできる居酒屋、駄菓子屋、魚屋なども軒を構えました。明治40年(1907年)には玉川電車が渋谷ー二子玉川間に開通。大正12年(1923年)の関東大震災の後は、さらに都心から多くの人が移り住み、2年後に玉川電車が三軒茶屋から下高井戸まで延長。三軒茶屋駅かいわいは寄席や市場、映画館もある華やかな街となりました。
三軒の茶屋は、明治時代にまず角屋が店をたたみ、田中屋は火災で消失。石橋屋は石橋楼という名の料亭旅館に変わり、震災後は舶来のおもちゃも売る喫茶店、次いで洋食喫茶・宴会場を営業し、戦災で店をたたんだそうです。
民話 「太子堂橋の子づれキツネ」
「いたぞ、いたぞ」
大勢の村人の集まる前で、逃げ場を失った子づれのキツネが、きょとんとしています。
じつはきょうは、名主のいいつけで、村をあげてのキツネ狩りの日だったのです。
村人たちは声をはり上げ、鳴り物をならして、キツネのいそうな土器塚や、上原あたりの、やぶをかき分けて探し回り、ようやくキツネのすみかを見つけたのでした。
でも、その後村人たちは、誰一人としてこの親子のキツネをつかまえようとはしません。口に出さないまでも、みんな後のたたりを恐れているのでした。
村人は名主がいないのをさいわいに、そのまま帰ってしまおうをする者もいました。
「かわいそうだ、逃がしてしまおう」
と言うことになって、今度は追いはらうまねをしましたが、親ギツネは子ギツネをかばって立ちすくむばかりで、逃げようともしません。
その内に、村人は一人去り、二人去りして、みんな円泉寺へ引き上げてしまいました。名主がようすを見に来た時には、もう親子ギツネも村人も、だれもいませんでした。
でもその日から、太子堂村では、キツネにばかされたり、田畑を荒らされることがなくなったのです。
そればかりか、暗い夜にはどこからともなく、親ギツネと子ギツネがちょうちんを持ってあらわれ、太子堂橋を渡ろうとする村人の足もとを照らし、行く道をしばらく案内してくれた後 、どこかへ消え去るのでした。
親子ギツネの親切は、この後 いつまでも続きました。
「きっと、いつかのキツネたちが、恩返しをしているにちがいない」
村人は、みなそう思いました。
こうして、太子堂の村は、親子のキツネに守られて、女や子供でも夜道を安心して歩けるようになり、しあわせな村になりました。